TRPGをやっていて常々思うことは、TRPGの楽しみ方は多様化しすぎて、セッション内におけるメンバーの指向性を統一することが難しい、ということである。
要はバランスの問題なのだが、その舵取り加減が実に難しいのだ。
元々コンシューマゲームのような画一的なゲーム進行から解き放たれ、リアルタイムで変化するライブ的なゲーム進行を望み、そのひとつの解がTRPGだったハズなのだが、なまじ自由な発想や展開が許されるだけに、その指向性は無数に拡散してしまうことが多い。
セッションを制御してシナリオという方向性を示すのはGMの役割である。対して、プレイヤーはPCという自分の分身に、自らの価値観や目的を投影して行動することが多い。
あらかじめGMが用意したシナリオとプレイヤーの思惑がマッチングすれば、おそらくは素晴らしいセッションになるだろう。
しかし、GMとプレイヤーの双方の思惑が外れ、それぞれの指向性がせめぎ合うと多くの場合、セッションは迷走する。
これを防ぐために、おそらく俗に言うF.E.A.R.系システムでは、シーン制やハンドアウトといったGM(シナリオ)バックアップの仕組みをルールに組み込んでいるのだろう。
だが、GMの用意したシナリオを丸ごと受け入れ、その筋書きに沿ってプレイするTRPGは、個人的に違和感がある。自由な発想や行動を制限すれば、確かに予定調和に落ち着くだろう。それが好ましくないのである。そういったプレイは、コンシューマゲームと大差ないように思えてしまうからかもしれない。
では、どのようなプレイが理想となるのだろうか?
そのキーワードは「変化」ではないかと、私は考える。
日常生活においては、誰でも当然のように行っていることである。何か問題に当たった際、方法や考えを適切に変化させて、その問題を解消しているハズである。
意外と、これをTRPGにおいては行えていないことが、ままある。
GMはシナリオ上の設定や段取りに固執して、プレイヤーはPCの設定や行動方針に拘る。
セッションにおけるリアルタイムの進行上で、それぞれが自分の指向性を主張すれば、かち合うのは当然であり、それでは混乱を招く。
そうならないためにもセッションの進行に合わせて、GM、プレイヤーそれぞれが考えを変化させ、GMはPCの要望を汲み取り、プレイヤーはGMのシナリオ意図を理解してプレイする。そうして、より良い展開へと指向性を集束すれば、おのずと理想の落着点に到達できるのではないだろうか。
それこそ、コンピュータプログラムには実現できない、生のTRPGプレイの醍醐味ではないか、と考える。


こういうことを考えているから、しっかりとしたシナリオ構成を組まず、ついついアドリブ進行に頼ってしまうのかもしれない。それはそれで、まずい傾向かもしれないが。