前回、先天的な“適性”を考えたのに対して、後天的な“指導”について考えるのが抜けていたので追記する。
結論から言うと、無意味である、と考える。
なぜ意味が無いのか。
人間が変化する=成長するには、自己の動機付けが必須となる。
つまり、自分から変わろうとしなければ、人間は変わらないのだ。
成長するには、変化する必要性を自身が認知しなければならない。
自らが失敗を経験し、その原因を追求して、改善の必要を認めたときに成長の芽は芽吹く。(もっともそこで成長のために努力するかは、また別の問題)
上達するものは、自分で問題を発見して、勝手に改善して成長する。だから、他者の指導とかは関係ない。
この過程で、成長の糧となるのは、本人が自分より上手いと思える他者との交流だ。
GMならば、良く練られたシナリオ構成、卓抜した演出/表現力、精密な時間管理、気配りの行き届いた卓の運営管理、などなど。
プレイヤーならば、伏線の看破/読解力、気の利いた発言や配慮、意見統合への誘導力、他メンバーとの同調力、などなど。
ずば抜けた技量を備えたTRPGプレイヤーはそれこそ数限りなく居る。
世間は広いのだ。
本人が直に見聞きして、体験して、感じた驚嘆や憧憬こそが変化の兆しとなる。
凄いと思ったことを見よう見まねで自己に同化させて、自分のものにする。つまり、“盗んで”上手くなる。
よく経験歴〜年とかいう自称“熟練者”が、経験年数の若い者に自身の経験談などをたらたらと語っているのを見るが、これはまったく意味が無い。
体験した経験を言語化して、相手に伝達することは難しい。多くの場合、単なる主観を感想として述べているだけで、押し付けがましい説教やただの自慢話になりがちだ。それは、むしろ老害である。
そもそも、それだけ優れているプレイなら、黙っていても勝手に手本としてまねてくれるだろう。いらない口出しは禁物だ。
出来る奴は、勝手に出来るようになる。出来ない奴は、いつまで経っても出来ないままだ。
これはゲームに関わらず、何事に関してもぜんぶ同じこと。だから、お節介は止めて、放っておいた方が良いのだ。