つい先日、旧サークルで世話になった人と久々に会って飲んだ。
彼は、どこぞのサークルでGM担当となってキャンペーン・シナリオを張っているらしい。
そのサークルでは指導的な役割を担っているらしく、彼の卓に属す若手メンバーたちのプレイについての評論を、活き活きと語っていた。
自慢やら愚痴やらを取り混ぜたその話を聞きながら、酔った頭で思ったこと。
TRPGというゲームにおいては、経験年数などは関係ないのではないか、ということである。
むろんセッションの場数をこなせば、それなりに経験を積み、プレイは熟達するだろう。
だが一方で、そのプレイヤーの本質はさほど変わらないのではないか、と思えるのだ。


TRPGはわりと簡単なゲームだ。
システムにも拠るがルールはさほど難しくは無い。ある程度の読解力があれば、ルールブックを読み込めば、大枠の仕組みは理解できるだろう。
GM担当者は、ルールを熟知する必要があるが、プレイヤーは基本的な判定方法を覚えていれば良いのだから。
多くのシステムは、たいていルールブックに入門用のシナリオを収録している。
GM担当者はそれを読み込んで、そのまま使っても良いし、それを元にオリジナルのシナリオを作成しても良い。
あとは必要な人数を揃えれば、セッションを開けるだろう。
で、多くの場合、初めてのセッションは、ぎこちないもので、微妙なプレイに終わるのではなかろうか。
でも、それで良いのだ。
人間は失敗から多くのものを学ぶ。
何事においても、それは変わらない。
試行錯誤の末にプレイを重ねて、勝手に上手くなっていく。そういうものだ。
だが、問題となるのは、“何が上手くなる”のか、ということだ。
枝葉的な知識が蓄積されても、表現や演技に熟練しても、ルールをいくら覚えても、正直な話、あまり意味がない。
なぜなら、TRPGの本質はコミュニケーションにあるからだ。
どれだけ知識があっても、表現力があっても、ルールを使いこなしても、それが他メンバーに容れられなければ、そのプレイに価値は無い。
そのセッションに参加している他メンバーとの折り合いをつけて、自分のPCを活躍させるこそが、TRPGにおいてもっとも必要とされる要素である。
他者と折り合いをつけるには、コミュニケーション能力が問われる。
このコミュニケーション能力というものは、その人間のそれまでの人生をなぞるように育成されてきたものであって、TRPGのセッションを通して一朝一夕に熟達するようなものではない。
つまり、セッションを通じて熟練するようなものではない、ということだ。


どんな遊びでも、遊び手=プレイヤーの向き不向きというものは、ある。
わりと簡単に遊べるTRPGにも、残念ながら“適性”というものがあるように思える。
好きこそものの上手なれ、という諺もあるが、難しいものだ。