『死刑――人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う』森達也(朝日出版)
来年2009年5月までに、裁判員制度が開始される予定である。
わずか一年数ヶ月後には、地方裁判所で行なわれる刑事裁判のうち、殺人罪傷害致死罪、強盗致死傷罪、現住建造物等放火罪、身代金目的誘拐罪など、一定の重大な犯罪について、市民から無作為に選定された裁判員が、有罪無罪の判定や量刑の判断に携わることとなる。
むろん、その量刑の範囲には、死刑も含まれる。
なんら犯罪に関わることのないごく一般的な市民が、死刑に携わる可能性が、もう間もなく起こりえる。
そういったことを念頭において、ふと本書を手に取った。
本書には、著者が三年に渡って様々な立場で死刑に携わってきた/いる関係者に取材を行なった過程、結果が記されている。
取材対象となったのは、死刑囚、弁護士、政治家、教誨師、元刑務官、被害者遺族などなど、それぞれの立場における廃止や存置などの持論をヒアリングしている。
その上で、著者は冒頭のスタンスのままに、あくまでも死刑廃止を訴える。やや情緒的な結びに見える。だが、それは否定できまい。


私は、死刑存置派である。
なぜか。私の思想は、かつて在った法家に似る。
人間の本質は、禽獣にも劣る。人間は、生存に必要の量を上回る貯蓄という概念とともに、本能を上回る業の深い欲望をも同時に手に入れてしまった。欲望を制御するには強い理知が必要だ。理知は幼い頃から、法と秩序に基づいた教育によってのみ修養される。ひとは教育を通じて、禽獣から人間に成るのだ。
はるか古代から現代に至るまで、人類の歴史には、狂気と欲望の赴くままに獣性を発揮した人間の恐るべき所業の例が多く遺されている。
敢えて繰り返す、人間の本質は、禽獣にも劣る。
実際のところ、本作で著者が説くように、死刑という刑罰には、期待されるほどの犯罪抑止力は無いだろう。
そもそも、実際に犯罪を起こす前に、自らが捕まり、法の裁定を受けて刑に処されることに思いを巡らせられる、それだけの想像力と判断力があれば、むしろ事前に思い止まるだろう。
真っ当な判断力が機能しない異常な心理状態だからこそ、人は重い犯罪を犯すのではないか。
したがって、犯罪者の責任能力なぞあまり意味を成さないと考えている。心身喪失であろうと耗弱していようとも、犯した罪は罪なのだから。
そうして犯した罪は、何によって償われるべきか。
たぶん、贖罪なんてものは成立しない。失われたものは決して戻らない。死は無である。不可逆的な死に対して等価な補償などは、誰にだって履行できやしない。
死刑は野蛮で残酷な刑罰であるという。
思うに、無期限の懲役刑、いわゆる終身刑の方が、よほど残酷なのではなかろうか。狭い独房の中で、死ぬまで収監される。その永い孤独は、人を苛む。
人の自由を長期にわたって制限する。それだって野蛮で残酷な刑罰ではないのか。
そもそも、罪に対する罰に対して適正な量刑などはあるのだろうか。
現に裁判官であっても、前例に応じて量刑を決めているに過ぎない。既存の法にあって、おそらく適正な刑罰などは無いだろう。
昨今の刑事罰の厳罰化が、必ずしも良いことであるとは思っていない。それでも、死刑に相当する罪はあると思う。
私は法家に近い思想をもつ。ゆえに教育の威力を信じている。人間は教育を通じて、成長することを信じている。
だから、犯罪者が刑罰を通じて改悛し、善性を取り戻す可能性を信じられる。
それでもなお、死刑という制度が継続することを望んでいる。
速やかな死刑執行は改悛の可能性を閉ざす。それはいけない。
ひとは禽獣から人間と成ってこそ死ぬべきだ。自らの可能性を自ら閉ざしたことを悔やみ。行なった罪への悔悟に迷い。そして不条理に殺されて死ぬべきだ。
私は、死刑の存置を支持する。