脳死臓器移植は正しいか』池田清彦角川ソフィア文庫
97年に国内初の脳死臓器移植が行なわれた際、その報道を聞きながら胸の内に湧き上がった違和感があった。
すなわち、永く人の死の基準であった心肺停止による心臓死ではなく、“脳死”という新しい死の定義の設定と、まだ生物的に“生きて”いるドナーから臓器を取り上げる、という所業に対する違和感である。
それは今なお、根強く胸の奥にわだかまっていた。本書は、その違和感を明確な論理をもって代弁してくれた。


脳死臓器移植法の適用以来、国内で実施された脳死者からの臓器移植例は、07年8月15日現在でわずか57例のみである。
平均すれば、年間たったの6例以下ということだ。その事例は、あまりにも少ない。
臓器が欲しいレシピエントに対して、臓器の提供意思のあるドナーが少ない、というのが現状である。
つまり、大多数の国民は見ず知らずの他人に自分の臓器を提供する意思など、持ち合わせてはいない、ということを証明している。
にも拘らず、現在の脳死臓器移植法を改正し、より多くのドナーを確保しようという動きがある。ドナーカードをもっていない者でも、家族の承認があればドナーにできる、という案(河野案)である。
本書でもそれを激しく指弾しているが、これは恐ろしいことである。
仮にその改正案が成立すれば、突発的な事故に遭い、身元が分からないままに脳死認定されてしまえば、本人の意思とは無関係にドナーとみなされて、臓器を取り上げられるという事態が起こりえる。
現に、同様のみなしドナー制度が成立しているアメリカのある州において、旅行中のデンマーク人の青年が事故に遭い、収容された病院で脳死認定されて、国許の家族の承諾も無く、勝手に臓器を取り上げられたという例がある。
そうしてまで取り上げられた臓器は希少であり、移植を希望するレシピエント候補のすべてに行き渡るわけではない。依然として、誰もが等しく救われることは無いのである。
それに加えて、この臓器移植医療は完成された技術ではない。他人の臓器がすんなりと定着するはずも無く、レシピエントは術後も免疫抑制剤の定期的な服用が必要であり、完全な回復は望めない。つまるところ、臓器移植とは他の再生医療が確立する前の“繋ぎ”の技術に過ぎないのである。
その“繋ぎ”のために、死の定義を書き換えてまで法を制定し、多大な費用と労力を投入してまで、ごく一部の患者に施しているこの現状に、本書は真っ向から反対する。
人間はいずれ死ぬ。偉人であろうが愚人であろうが、どのような人間も永遠に生きることはできない。誰かを犠牲にしてまで生き延びる価値など、誰にも等しく無いのである。
突然の事故は誰の身にも起こりえて、かつ脳死に至る可能性がある。この問題は、決して他人事ではない。