TRPGにおけるPCのシナリオに関与する傾向は、大きく分けて二タイプに分けられるように思える。


1)能動的なスタンス
熱血系スタイルを演じるPCに多い。シナリオには積極的に関与して、GMの用意したイベントに絡もうとする。とにかく、そのシナリオ上の最良の結末を得ようとあらゆる手を尽くす。いわゆる善意で動き、それをモチベーションにできるスタイル。
2)受動的なスタンス
冷静系スタイルを演じるPCに多い。多くの場合、クールでハードボイルドな所作を演じたいがために、自身のイメージを優先する。そのため、シナリオに対して、傍観者の立場を取ることを好む。他のPCに接触することも少ない。シニカルで斜に構えた運命論者的なスタイル。


いわゆる初心者、TRPGを始めたばかりのプレイヤーは、前者の傾向が強い。右も左も分からないから、GMからのサジェスチョンを素直に受け取り、イベントに乗るからだろう。
対して、ある程度TRPG歴が長いプレイヤーになってくると、後者の傾向が強い者が多くなってくるように見受けられる。特に、キャラクタープレイ(PCの個性演出)にこだわるプレイヤーでは、その傾向がより顕著になるように感じられる。
過去より多くのフィクション作品において、未熟だが熱意をもって事件を解決しようとする若手の主人公と、熟練した腕を持つが冷めて一歩引いた年配の脇役といったコンビが活躍してきたが、それがTRPG上で再現されているのだろうか。不思議なものだ。
しかし、大半のキャラクタープレイ型のプレイヤーは、そういったクールで渋いPCを演出しようとして、受動的なスタンスでプレイに臨み、たいがいは失敗している。
なぜ失敗するかというと、簡単な話で、受動的なスタンスで自ら動かないために、シナリオで用意されたイベントに絡めず、またそれに関わろうとする他の能動的なPCに絡まないので、孤立するからである。TRPGのセッションでは、キャラクターの稼働率がそのままそのキャラクターの評価に繋がる。出番が減れば、発言量も減り、存在感は限りなく薄くなる。セッション中に活躍しない(できない)PCは、ゲームのキャラクターとして見れば、あきらかに失敗作であろう。
シナリオ遂行のために、大半のPCたちが一致団結して活動している横で、ひとり自身のキャラクタープレイを繰り返しているPCは、はっきり言って“お荷物”以外の何物でもない(俺格好良かったぜ、で自己満足しているそのプレイヤー本人は、それでいいのかもしれないが、GMや周りのプレイヤーが困る)。
フィクション作品では、作者の書いた筋書き通りに進むので、登場人物たちは予定調和で出会い、活動して、物語の結末へと集束していく。だから、どんな個性の登場人物でも、何らかの役割を果たせる。
だが、TRPGは多数のプレイヤーが扱うPCたちが、ライブで活動するために、結末は有機的に変動する。GMから提示された状況の中で、PCたちはそれぞれが何らかの役割を負い、分担して行動する。そのため、互いに足りないところを補う合うために、PCたちはパーティというユニットを組む。パーティ内における、各PCの役割分担は、自発的なものである。それだけに、より活発に動いて役割を果たす者、役割を果たさない者と、明暗がくっきり分かれてしまう。


では、クールでハードボイルドなPCは、TRPGでは成立しないか?
答えは、否としておこう。十分に成立する。
プレイヤーがシナリオで用意されたイベントを積極的に拾うための理由付けさえ考えれば、PCのスタンスなんか関係なく、積極的に動かすことは簡単にできるものだ。むしろ、PCをシナリオに絡むように誘導するのは、プレイヤーの技量であろう。折をみて、「やれやれ、見てられないな」とか呟いて、パーティへの合流を段取りすればいい。何事も、見切り時を間違えさえしなければ、軌道修正はいくらでもできるものだ。
要は、プレイヤーさえ、シナリオに関わる意思さえあれば、クールな(クールに見える)PCでもイベントに関与するプレイは十分にできるのである。


TRPGは、複数のメンバーが集まって行なうゲームである。当然ながら、作成されたPCたちは、共同プレイとしてパーティ行動を求められる。格好付けたいために一匹狼を気取るヤツはいらないのである(そういう人はTRPGではなく、コンシューマゲームに向いている)。
セッション中に周囲のPCやGMの用意する舞台に、自分を合わせる努力を怠ったPCは、いつか淘汰される。パーティに絡めなくなるか、シナリオに絡めなくなるか、いずれにせよ、孤立したPCは、その時点で寿命が尽きる。
ウチのサークルでは、キャラクタープレイ(個性演技)を推奨していない。テーブルトーク(対話)とロールプレイ(役割演技)を推奨するようにしている。